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60.深い河

  • hinakokuga
  • 2018年6月9日
  • 読了時間: 5分

久しぶりのブログ更新です。

先週の金曜、6月1日に、今学期の全ての授業が終わりました。テスト期間はまだ残っていますが、ETHでの学生生活もおしまいです。 チューリヒはすっかり初夏になり、いつものジョギングコースの湖では、人々が泳いだり昼寝したり思い思いにすごしていて、豊かな時間が流れています。

思い返すと、先学期は、スタジオ設計課題にほとんどの時間をさいていましたが、今学期はスタジオだけでなく、他の授業だったり、インターンの準備だったり、様々なことに取り組むことができたように思います。 予定では今週の月曜からインターンを始めるはずだったのですが、チューリヒからの労働許可がなかなかおりず、図らずも一息つける期間となっています。(おりなかったらインターンができなくなってしまうので、おりるといいなぁ、、、) 建築やArchicadや英語の勉強に加え、料理や運動の回数を増やしたり、両親のスイス旅行の計画や、修論のテーマも(ぼんやりだけど)考えたりしています。また、折角できた時間なので、ポジティブに、ヨーロッパの町や建築をたくさん見る期間にしようとしています。 先週末はミュンヘンに大学1年からの友達と週末旅行に行ったり、今週は建築学部の友達とロンシャンにコルビジェの教会を見に行ったりしました。 そんな中、ブログも復活させよう、と思った次第です。書きたい内容、整理したい旅行の写真は溜まる一方で全く追いついていません。笑 とりあえず、日々の振り返りをイースター休み以来していなかったので、4.5月のまとめを何回かに分けて投稿していこうと思います。 ———— 4.5月は、色々なことにバタバタ追われていたと同時に、様々なことについて見つめ直す時期でもありました。 以下、長文です。笑 大きい出来事として、5月頭に父方の祖父が他界したことがあります。 祖父は、優しくて、野球好きで、なんだかオーラ・迫力があり、孫から見ても憧れるような自慢の人でした。 お酒もタバコも好きだったけれど、長生きして、1週間前には12月に生まれた姪(ひ孫)にも会い、父をはじめ家族に見守られ、最期まで本当にかっこいい祖父でした。 しかし葬儀は亡くなったその日に行われたので、私は、間に合う飛行機の空席がなく、日本に帰ることはできませんでした。 悲しくて寂しいという感情はもちろんですが、それだけではなくて、最後直接お別れすることができず、もやっと後悔が残っていました。(ビデオ電話はさせてもらえたので、最後に顔を見ることはできたのですが) チューリヒに行く前に、行って来るね、と直接会って言えればよかったなぁと思ったりもしました。 次日本に帰って関西に行っても祖父はいないという実感があまり湧かず、離れて暮らす、海外に住んでいるというのはこういうことなのだな、と感じました。 と同時に、家族と一緒に過ごせて、しかも自分がやりたいことができる、と全てを取るのはすごく贅沢なことなのだなぁと感じました。 色々な感情が漂って、ぼんやりしていた時に、ターニングポイント(?)となる機会が二つありました。 まず一つ目は、同じ寮のアメリカ人の友達が英語で行われるミサに連れていってくれたことです。 私自身はカトリックではないけれど、小中高とカトリックの学校に行っていて、ミサは身近なものでした。高校生ぶりのミサでしたが、順序に従ってお祈りしていくと、胸がすっと落ち着きました。 また、ミサの後に、友達が、人が亡くなった時によくされるというお祈りを一緒に祈ってくれました。 (このお祈りだよ、と後でyoutubeも教えてくれました→https://youtu.be/p5TGfisOKMM) きちんと改めて祖父へお祈りすることができたし、出会って数ヶ月しかしてたっていない友達がそっと横で一緒にお祈りしてくれたというのは、とても嬉しいことでした。

↑ミサが行われたEnglish-speaking Catholic Mission また、二つ目は、遠藤周作の本を読んだことです。「沈黙」をはじめ、中高時代に何冊か読んでいましたが、改めて 「深い河」 「死について考える」 「海と毒薬」 を一気読みし、生きること・死ぬことや、宗教など、様々なことを考えました。 「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通づる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうと構わないではないか」(「深い河」より) 「神は自分の中にもある大きな生命体です。そして、死によって人間はその大きな生命の中に戻って行く。それを復活というのです」(「死について考える」より) 「死というのは、多分、海みたいなだろうな。入って行くときは、甚だ冷たい。それが通過儀礼としての死の苦しみでしょう。しかし一旦入ってしまった海はー永遠の命の海で、その海には陽光がきらめくように、愛がきらめいている」(「死について考える」より) 色々な言葉が、なんだか胸にストンと落ち着きました。 私は今は、人が亡くなると、自然に溶けて行くのかな、と思っています。かつて流行った「千の風になって」みたいな感じでしょうか。 ミサに訪れた日の夕方は、ぼんやりとそんなことを思いながら家の近所の湖を歩きました。

そして、お葬式には行けなかったけれど、お祈りは通じたかなぁなんて勝手に思ったのでした。 悲しくて寂しいけれど、少し自分の中で様々なことを受け止められた気がします。 また、今まではあまり考えたこともないことに向き合った時期でした。

 
 
 

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